2008年2月アーカイブ
チイタチ・ジュウグニチ、十二月二十四日、一月四日(いずれも旧暦)は、ヒヌカンへの御願(ウグヮン)日である。今日でもオバアたちは、古くから伝わるこの習俗をきちんと守り、御願を欠かさない。
チイタチ・ジュウグニチ(一日・十五日)は、毎月やってくる御願日である。その日に特別に報告すべきことがない場合、チムガカイ(気がかりなこと)することがないときは、「家族の健康」・「家庭の円満」を祈願する。
十二月二十四日は「上天の日の拝み」がおこなわれる。この日に、ヒヌカンは天の神さまのもとに帰り、一家の一年中の出来事(善悪を問わず)を報告すると信じられている。それだから、オバアたちの多くは「善い事だけを報告して下さい」と祈る。
このような考え方は、中国のかまどの神の影響だとされているが、いつの間にか沖縄のヒヌカン信仰に定着したようである。
一月四日(地域によっては十二月二十九日から一月三日)は、上天したヒヌカンがもどってくる日だとされ、「下天の日の拝み」がおこなわれる。
ヒヌカンへの祈願は、このような定期のものばかりではもちろんない。家でおこるもろもろの出来事はまっ先にヒヌカンへ報告するし、節々のまつり事や冠婚葬祭にもヒヌカンへの祈願は欠かせないものである。
オバアたちによって繰り返される祈りは、困ったときの「神頼み」とはおおよそ違い、クヮッウマガ(子孫)の守護を願う慈愛と、ウヤグヮンス(親元祖)に捧げる深い感謝の念にあふれている。
オバアたちにとって、ウートートゥする習慣は、知らずしらずのうちに、からだにしみ込み、生活のリズムをつくり出しているようにも思える。沖縄女性のからだに組み込まれたDNA(遺伝子)と言えるのかも知れない。
ヒヌカンの存在さえも知らなかった若い女性がやがて、主婦となり一家を守る立場になったとき、祖母や母と同じように手をすり合わせ、家族の健康と盛運を願って一心に祈るようになるからだ。
かっての「ウマチー」といえば、麦と稲にかかわる四つの祭りをさしていた。二月の「麦穂祭」と三月の「麦の収穫祭」、そして五月の「稲穂祭」と六月の「稲の収穫祭」(いずれも旧暦)である。
四つの祭りのうちとりわけ、「グングヮッチウマチー」ともよばれる「稲穂祭」は重んじられた行事で、首里城内はもとより各間切のノロの支配下にあった村落でも盛大におこなわれていたようだ。
古くは、王府により祭りの日が決められていたが、明治以降、五月十五日に定日化したとされている。
麦作がほとんど見られなくなってしまった以後は、二・三月の麦にかかわる祭りはすっかりすたれ、ウマチーといえば「グングヮッチウマチー」のみをおこなう地域がふえた。
グングヮッチウマチーは、稲の初穂を神仏におそなえし、実入りが多く豊作になりますように乞い願う行事であり、「稲穂祭」・「シキョマ」・「シチュマ」などとよばれている。なお、「シキョマ」とは?初穂?を意味する。
それからもわかるように、ひろくは稲の豊作を祈願する行事だが、粟の穫れる地域(粟国島など)では粟の豊作を祈願する「粟穂祭」(粟シチュマ)とよばれている。
稲の初穂三本(地域によっては七本)をヒヌカン、トートーメーあるいは集落の拝所におそなえし、豊作を祈願するという儀式はほぼ共通している。
各地に「ターブックァ」と称される水田地帯の名残をとどめる地名が今も残されているように、戦後間もないころまで沖縄にも美田が数多く見られた。黄金色の穂が畦を枕にする風景はことさら珍しいものでもなかった。豊穣を願う人びとの、グングヮッチウマチーに寄せる思いも切実なものであったにちがいない。
しかしながら現在、沖縄の農村地帯、とりわけ本島で稲穂が風に揺れる風景に出合うことは難しくなった。祭りのために稲の初穂を手に入れることすらできない、と嘆くお年寄りが多いのである。いつの日にか「グングヮッチウマチー」も消える運命にあるのだろうか。
四つの祭りのうちとりわけ、「グングヮッチウマチー」ともよばれる「稲穂祭」は重んじられた行事で、首里城内はもとより各間切のノロの支配下にあった村落でも盛大におこなわれていたようだ。
古くは、王府により祭りの日が決められていたが、明治以降、五月十五日に定日化したとされている。
麦作がほとんど見られなくなってしまった以後は、二・三月の麦にかかわる祭りはすっかりすたれ、ウマチーといえば「グングヮッチウマチー」のみをおこなう地域がふえた。
グングヮッチウマチーは、稲の初穂を神仏におそなえし、実入りが多く豊作になりますように乞い願う行事であり、「稲穂祭」・「シキョマ」・「シチュマ」などとよばれている。なお、「シキョマ」とは?初穂?を意味する。
それからもわかるように、ひろくは稲の豊作を祈願する行事だが、粟の穫れる地域(粟国島など)では粟の豊作を祈願する「粟穂祭」(粟シチュマ)とよばれている。
稲の初穂三本(地域によっては七本)をヒヌカン、トートーメーあるいは集落の拝所におそなえし、豊作を祈願するという儀式はほぼ共通している。
各地に「ターブックァ」と称される水田地帯の名残をとどめる地名が今も残されているように、戦後間もないころまで沖縄にも美田が数多く見られた。黄金色の穂が畦を枕にする風景はことさら珍しいものでもなかった。豊穣を願う人びとの、グングヮッチウマチーに寄せる思いも切実なものであったにちがいない。
しかしながら現在、沖縄の農村地帯、とりわけ本島で稲穂が風に揺れる風景に出合うことは難しくなった。祭りのために稲の初穂を手に入れることすらできない、と嘆くお年寄りが多いのである。いつの日にか「グングヮッチウマチー」も消える運命にあるのだろうか。
近年、神社の境内に「ハチアッチ」と墨書きされた看板が見られるようになった。どうやら、生まれた子の?初宮詣?のことをさしているようだ。
「ひぬかんがなし はちんじゃー さびぃくとぅ からだきみそーり」。赤ちゃんを抱いた母親が、生後はじめて外出するときに、ヒヌカンにむかって唱えることばである。初外出のことを「ハチアッチー」という。ハチアッチーの際にも、ヒヌカンの加護がありますように、と祈ったのである。
出かける赤ちゃんの額にすす(なべやかまどの)をつけながらオバアは、「うやる んじゅんどー ぬーん んじゅなよー」(お母さん以外、何も見るんじゃないよー)という呪文を唱えた。そして、母親のふところには弓やハサミ、小刀などをそっとしのばせた。
魔ものに赤ちゃんの魂が吸いとられないようにというまじないである。すすをつけたのは、きれい好きな魔ものが近づかないためだとされているが、ヒヌカンの守護を願う気持ちもこめられていたのであろう。ハサミなどの小道具は魔よけである。
母子のむかう先は、大方の場合、母親の里であった。ひらたく言えば「はじめての里帰り」ということになる。
母子をむかえる里では、親戚縁者はむろんのこと、隣近所の人たちもかけつけて、ささやかな祝儀を赤ちゃんのふところにしのばせた。祝儀のことを「マースデー」とよんだ。
もともとは、バショウの葉などに塩そのものを包んだところから「マースデー」とよばれるようになったようだ。塩によって赤ちゃんをけがれから守るという意味があった。
昨今では、塩のかわりにお金を包むのが当たり前になったが、それでもお年寄りは「マースデー」とよぶ。
塩を包んだという古俗の名残をとどめる「マースデー」ということばには、生まれた子の健やかな成長を願う純朴な人びとの気持ちがよくあらわれている。
ヒヌカンの加護を願い、ささやかなマースデーをしのばせた美風を、初宮詣と混同してはならない。
「ひぬかんがなし はちんじゃー さびぃくとぅ からだきみそーり」。赤ちゃんを抱いた母親が、生後はじめて外出するときに、ヒヌカンにむかって唱えることばである。初外出のことを「ハチアッチー」という。ハチアッチーの際にも、ヒヌカンの加護がありますように、と祈ったのである。
出かける赤ちゃんの額にすす(なべやかまどの)をつけながらオバアは、「うやる んじゅんどー ぬーん んじゅなよー」(お母さん以外、何も見るんじゃないよー)という呪文を唱えた。そして、母親のふところには弓やハサミ、小刀などをそっとしのばせた。
魔ものに赤ちゃんの魂が吸いとられないようにというまじないである。すすをつけたのは、きれい好きな魔ものが近づかないためだとされているが、ヒヌカンの守護を願う気持ちもこめられていたのであろう。ハサミなどの小道具は魔よけである。
母子のむかう先は、大方の場合、母親の里であった。ひらたく言えば「はじめての里帰り」ということになる。
母子をむかえる里では、親戚縁者はむろんのこと、隣近所の人たちもかけつけて、ささやかな祝儀を赤ちゃんのふところにしのばせた。祝儀のことを「マースデー」とよんだ。
もともとは、バショウの葉などに塩そのものを包んだところから「マースデー」とよばれるようになったようだ。塩によって赤ちゃんをけがれから守るという意味があった。
昨今では、塩のかわりにお金を包むのが当たり前になったが、それでもお年寄りは「マースデー」とよぶ。
塩を包んだという古俗の名残をとどめる「マースデー」ということばには、生まれた子の健やかな成長を願う純朴な人びとの気持ちがよくあらわれている。
ヒヌカンの加護を願い、ささやかなマースデーをしのばせた美風を、初宮詣と混同してはならない。
