2008年1月アーカイブ

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 戦後もしばらくの間は、地方では自宅出産がふつうにおこなわれていた。かくいう筆者も戦後生まれなのだが、産声をあげたのは実家「クチャ」(裏座)であった。集落に産婆がおり、彼女の手によってとりあげてもらったのである。
 自宅出産がごくあたり前であったころ、出産が近づくと、クチャと呼ばれていた産室に「ジール」(地炉)という約一メートル四方の炉が用意された。ジールに薪をくべて火を焚くのである。産婦のからだを冷やさないためだとされていた。冬場ならともかくとして、不思議なことに夏場でも夜間は火を絶やさなかったという。ただでさえ汗が吹き出し、寝苦しくなる夏の夜に、産婦のからだを温める必要があったのだろうか。取材先で聞いたオバアたちの話は一様に、「あれはお産以上に難行苦行だったよ」というものであった。
 それでは何故に、気温も高く、風の通りも決してよくない産室で、火を焚き続けたのであろうか。
 産婦のからだを冷やさないという健康上の理由のほかに、「産室にヒヌカンをお迎えして、母と生まれる子を守護してもらう」という意味が込められていたからである。
 ジールで燃えさかる火は、お迎えしたヒヌカンそのものであった。それだから、産室を出るまでの間、火を絶やすことはなかったのである。
 さて、生まれた子の産声を聞くとオバアは、まっ先に台所に祀られたヒヌカンに報告した。ヒヌカンに花米と酒をお供えし、線香をともして子が無事に生まれたことへの感謝と、ヤーニンジュ(家族)として認めてもらうための願いと、見守ってくださるようにという祈りを捧げた。そして、生まれた子がヒヌカンの加護のもとへ入ることを確認したのである。
 自宅出産がほとんど見られなくなった今となっては、ジールもすっかり姿を消してしまったが、オバアたちの「クヮッウマガ」(子孫)の加護を願う祈りは決して消えることはない。たとえ遠方で聞く孫の誕生の報であっても、その喜びをきちんとヒヌカンに報告し、守護を願って祈るのである。

慈悲深い家の守り神

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 沖縄では、家庭でおこるさまざまな出来事、結婚や出産などの祝い事から家族の健康、商売繁盛などの願い事まで、何をさしおいてもまずは、ヒヌカンに報告し祈る。
 嫁ぐ娘は、嫁入り先にむかう前に、生家のヒヌカンに別れを告げた。花嫁はミジムイ(水盛)という儀礼の前に、嫁ぎ先のヒヌカンを拝み、家族の成員になることを報告し、その守護のもとに入る誓いがなされた。
 お産の間、ジール(地炉)に火を焚き続けたのは、産室にヒヌカンをお迎えするという意味が込められていた。そして、子が生まれたときには、まっ先にヒヌカンに報告し、ヤーニンジュ(家族)になったことを認めてもらった。
 ナージキ(命名式)の際には、ヒヌカンの前で儀礼をおこない、名前が決まるといの一番に報告するのもヒヌカンであった。
 このように、身の回りでおこる出来事をトートーメーよりも先に報告し、その加護を願った。沖縄では絶対視されているはずのトートーメーよりも優先されたのである。
 たとえ報告すべきことがないときでも、チムガカイ(気がかりなこと)することが特段ないときでも、家に幸福をさずけ、豊作・大漁をもたらしてくださいと願った。そして、病気や不幸、災難を防いで「家族が円満でありますよう」にと祈り、「みーまんてぃ うたびみそーり」ということばを添えた。
 取材先で出合ったオバアたちの多くは、今でも毎朝「ヒヌカンを拝まないとチムワサワサ」するのだ、と口々に言う。
 チムワサワサとは、これという理由はないのだが、何とはなしに心穏やかになれない心持をあらわしたことばである。
 このことからも、ヒヌカンがまことに慈悲深い神さまとして信仰されてきたことがわかる。
 トートーメー信仰のおこる以前は、ヒヌカンが唯一の家の神さまであり、家の守り神であったことを考えると当然のことだと言えるが、「チムワサワサする」ということばに象徴されるように、オバアたちにとってみれば、今なおもっとも崇拝する神さまなのである。

火やかまどを神聖視

 

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 豊かな恵みをもたらす太陽に、神の存在(太陽神)を認めた私たちの祖先はやがて、目の前で赤々と燃えさかる火にも、太陽と同じようにえも言われぬ神秘の力、神の霊が宿るのを感じた。そして、火に宿る神を「火神」(ヒヌカン)として深い信仰を寄せていった。それは、ごくごく自然の成り行きであったといえる。
 神の宿る火が常に燃やされ、日々の食べ物を煮炊きするカマドもまた、神のいます神聖な場所として、人々の祈りの対象となっていった。
 よく知られているように、沖縄の古式のカマドは、自然の石を∴形に並べたものであった。このように、カマドそのものに神の霊が宿るとする考え方は、ウグヮンの際に手前に置いた二個の石の間に、カマドよりかき出した灰を盛り、その上に線香を立てる、という伝統的な拝み方からも知ることができる。また、∴形に並べた自然石やカマドそのものを「ヒヌカン」と呼ぶ(南城市佐敷)ことや、ヒヌカンのことを「ウカマ」と称する(全島的)ことからも、十分に理解できることである。
 カマドの中で火が赤々と燃えるさまは、古代沖縄人にとって、霊地とされる東方の島々(久高や津堅島など)の間から昇りくる太陽をイメージさせるものであったにちがいない。
 火やカマドを神聖なものとし、神が宿ると考えたのは、何も古代沖縄人だけではなかった。ギリシアやローマの人びとも火は、それが常に燃やされるカマドとともに、家や家族を守護する神として厚い信仰を寄せた。古くから沖縄と深いつながりのあった中国でも、火やカマドは人びとの信仰の対象となっていた。
 私たちの祖先も、他の国々の人びとと同じように、太陽を神格化し、すべての生命の源だと信じて信仰の対象とした。そして、地上の火に太陽神の化身をみて、心より崇拝してきたのである。
 火の中に宿ると信じられてきた神は、まぎれもなく太陽神であり、それに深い祈りを捧げてきたのが、沖縄のヒヌカン信仰のそもそものはじまりだといえる。

 

 
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「みーまんてぃ うたびみそーり」(見守ってください)と、オバアたちが祈りの最後に添えることばは、何ともいえぬ美しい響きをもっている。
 嬉しいとき悲しいとき、祝い事があったとき困ったとき、とにもかくにもオバアたちは手をすり合わせて一心に祈る。その丸みを帯びた背はやわらかく、慈しみに充ちている。
 ぶつぶつとつぶやきながら祈りを捧げているのは、台所の隅に祀(まつ)られた「ヒヌカン」(火の神)であり、仏ダンに祀られた「トートーメー」(位牌=祖霊)である。
 何を唱えているのであろうか。何を祈っているのであろうか。祈りを捧げているヒヌカンとはいったい、どのような神さまなのであろうか。その本質は、実のところよくわかっていないというのが正直なところではないだろうか。
 そこで、私たちの祖先が延々として祈りを捧げてきた「ヒヌカン」について、オバアたちの祈りの世界を通してみていくことにする。
 
 
連載の一回目となった今回は、ヒヌカン信仰の起源ともなったというべき、古代沖縄人の「太陽(ティダ)が穴(アナ)」によせた素朴な思いを考えてみたいと思う。
 日ごとにあらわれ、あまねく世を照らす朝明けの太陽は、「東の穴」を出て、太陽の道を昇ってくると私たちのはるかなる祖先・古代沖縄人は考えた。そして、太陽の出てくる海の彼方の水平線の向こうにある東の穴のことを「太陽が穴」と名づけた。
 
 
その太陽の穴こそが、神のいますところであり、古代沖縄人が思い描き、憧憬した理想郷"ニライカナイ"の存在する場所を示し、精霊みなぎるところだと信じた。命をはぐくむ火や水も、日々の糧となる五穀も太陽が穴からもたらされる大いなる恵みだとして、日々心よりの祈りを捧げた。その祈りこそ、沖縄人の祈りの世界の原点ともいうべきものとなった。
 すべての生命の源である「太陽が穴」から昇りくる太陽に、限りない神性を認め、祈りを捧げてきた人びとの姿こそ、今に祈るオバアたちの原始の姿なのである。

 

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